歌壇プロパーの認識の踏み絵としての笹公人 「念力家族」評 

桐生祐狩

その1 抒情SFとしての「念力家族」

 名古屋在住の作家にして東海地区SFの重鎮K山氏が、ある夜私とSFの話題で盛り上がっていたときに吐いた名言がある。
いわく、「SFは義理と人情」。
SFとは宇宙を舞台にしたドンパチでも、科学をベースにした思考実験でも、どうやって宇宙線を防御しているのかわからん半裸の女の子でもなく(いやこれらの要素だってもちろん好きだが。特に最後の)、何よりも抒情の器である。このへん、「人間描写とかが未熟でもSFとして面白いことが何より重要」という山本弘と学会会長と意見が異なるのだが、読み手のセンチメンタリズムに訴えてめろめろにしてくれるだけの人間描写や文学性ぬきで「良いSF」の存在など考えられない。しかし心配する必要はない。SFはSFであるというだけで、どうしようもなく郷愁をかきたてる要素を最初から持っているのである。それは必ずしも、ブリキ製のロボットなどに還元されるレトロなイメージのみを言っているのではない。
SFの内部においては、あらゆる時間が過去であり未来である。多元宇宙のすべてが処女地であり故郷である。抒情にとってもっとも重要な感覚、それは「はるけきもの」を思うときの感傷であり、われわれ全員にとって唯一確実である「死」の外側に思いをはせるときの、あの静かな諦念としめつけるようなあこがれを、SFはそもそものはじめからずっと内包させてきた。
私は中学生のころさかんに詩を書いたが、いつも不思議だったのは、「なぜこんなことを自分は、確かにそこにいてそれを見たという感覚でとらえるのだろう」ということだった。私の詩には隠生代の記憶、アンモナイトとの恋、はたまた地球上には存在しないデザインの都市におけるアンニュイな生活の様子などがあふれていた。もちろんそれ以前からSFの熱心な読者だったしそれに影響を受けて書いていることは一目瞭然なのだが、他のジャンルの小説からはいくら読んでも何らその手の影響を受けなかった。「私はかつてここにいた」という、錯覚なのがわかっているのに強烈にとりついて離れない異世界のイメージへの確信、それはすでにもうひとつの現実だった。
幼稚さや未熟さの現れ? 私はそうは思わない。私に言わせれば、ありえざる記憶を幻視せずして運営されていく人生や社会のほうが、はるかに幼稚で未熟である。そしてある種の人間は、決して起こらなかったもうひとつの過去を二重映しのように現実の過去にまつわらせながら生きてゆく。

 アトランティス時代の記憶甦る弟の目に涙あふれる

 私もまた、何度そんな涙をながしたことだろうか。笹公人「念力家族」が描くのは、その三十一文字の世界のなかで、果たせぬ帰還を甘やかにかなしみ、市井に埋もれながら時おりささやかに超能力を小出しにしながら生きてゆく、もう一人のあなたであり私である。これが単に個人の妄想にとどまらない証拠には、この歌集で描かれる世界に登場する異人は主人公一家のみではない。誰もが、超能力を隠し持つ日常人の可能性を持っている。

 落ちてくる黒板消しを宙に止め3年C組念力先生

 生徒らのいたずらを、とっさに見せてしまったサイコキネシスでくい止めることはできても、先生の安月給ともてなさ加減に変わりはあるまい。

 5時間目 教師のダジャレ予測する既視感(デジャ・ヴュ)の少女に夕陽射しおり

 この教師がいつもいつも同じおやじギャグをかます故の既視感、と言ってしまえば話は早いが、ここにはかすかな予知能力の芽生えとそれへのおののきがある。彼女は未来のカッサンドラ、やがては大いなるカタストロフを予言して人々に疎まれ、逃げることもかなわず焼きつくされる運命にある。その光景はまた、われわれが共有する「なかったこと」の記憶でもあり、少女の頬を照らす夕陽はその残照である。

 

その2 永遠の夏休み

 少年時代が黄金だなどともはや誰も言うまい。「輝ける時代」は、それが存在しないと判明する以前から郷愁の対象である。かく言う私なぞ小学校二、三年の頃すでに、「あの遠い日の夕暮れ」がどうしたこうしたという詩を書いていた。歳がフタケタいかない子供の遠い日っていつだ。幼稚園か赤ん坊の頃か。いやそうではなく、私は確かに「遠い日」の印象とそれへの懐かしさを持っていた。これは人類共通のアーキテクトであろう。「少年時代」は短歌にとって恰好の歌枕であり、歌枕というものがつねにそうであるように、最初から古び、はるけく、ひさしく、せつなく忍ばれるものなのである。

 天井の木目の鬼が笑い出し便所に行けぬ夏の少年

 とは言えだれもが、現実の子供時代を持つのも事実である。世界が後年に比べより恐怖寄りに解釈され、「友人の友人」の珍奇な体験や奇怪な噂が「本当にあったこと」として語られる、世界がもっと蠱惑的な場所であるはずの時間。

 塩素臭漂うプールサイドから見る理科室の人体模型

明かりを落とした学校のそこここには幽霊や殺人鬼が潜んでいる。潜んでいて欲しいと願う。そんなものも内包できないほど、自分の生まれてきた世界が矮小だと思いたくはないから。しかし大人たちが言う「きみたちの無限の可能性」なるものの中身にはせいぜい携帯電話の契約コース程度の組み合わせしかなく、世界はやがて雨に打たれる灰色の廃ダンボールの山のような実相を容赦なく現す。そこにはすでに少年は存在しない。少年時代は、体験されるまえに断たれてしまった。

 あの夏の石段の上僕の背を押した少女よ どうしてますか

 

その3 対立と融合

 物語において敵とは、自己のもうひとつの姿である。巨大ヒーローと怪獣はどちらも踏みつぶされる街にとっては迷惑な存在であり、どちらもお互いなしでは存在し得ない。「ささやかな庶民の幸せ」は冒頭からぶち壊されるものとして提示され、観客の期待通りナラズ者が登場しその幸せを蹂躙し、ヒーロー(乃至ヒロイン)は喜色満面でわるものを退治する。そこには相互補完の法則が存在し、あえて言うなら現実の社会で犯罪がなくならないのだって、実は社会がそれを必要としているからだろう。
モンスターの出現は、封じこめられ日常のコードに埋没させられた原初的な力が呼びよせる復讐である。

 すさまじき腋臭の少女あらわれて部屋の般若の面が割れたり
すさまじき腋臭の少女あらわれて第三の目に痛み走れり
すさまじき腋臭の少女あらわれて無心でガムラン打ち鳴らす兄

 この世のものならぬアポクリン腺を持つ「少女」は、ひたすら脱臭除菌へと向かう文明社会に現れた大地母神であり、同時に、進化の途上で不要となった生理現象の暴走が引き起こすさまざまな疾病の意志ある擬人化でもあろうか。彼女を撃退せんとする念力家族に、と学会員の皆神龍太郎氏は激励のエールを送っているが私はむしろ、彼らの迎撃のなかに、まつろうことを選びみずからの魂のルーツを民芸調の安物に貶(おとし)めて暮らす民族の悲哀をみる。

 現代社会におけるスタンダードは、多様な文化の共存である。違いを認めあいお互いの文化を尊重するというお題目のなんと魅力的かつ開明的であることか。だが、文化摩擦がなぜ起こるかということを考えるとき、私は「異なる文化の存在の受容」が、とりも直さず「自らの文化の冗談化」につながるからではないかと感じる。西欧文明の目にさらされることによりチョンマゲや二本差しはコントのネタに下落し、いくら学者が「相対的視点」なる呪文をふりかざしても、文化の持つべき厳粛さはついに戻らないだろう。「ラスト・サムライ」など、難しい顔でドリフのコントをやっているようにしか私には見えなかった。

 笹公人氏がしばしば「お笑い歌人」と呼ばれ、「念力家族」に対する、短歌プロパーによるおおかたの批評がユーモアの要素だけを取り上げたものになりがちなのは、とりも直さず評者たちのフィクショナルなものへの素養の低さ、情緒それ自体の矮小さ、そして真に追放されたこともなく、社会の一員としてというより種族のレベルで孤独であったのことのない者の無自覚無神経があずかっているように私には思われる。彼らが「リアリティ」と口にする時のその言葉の、なんというスケールの小ささであることか。彼らのその感覚の棲家でありえた「リアリティ」あふれる二次元的生活(せん)二次元という言葉は深く広大な可能性を持つ映像メディアではなしに、地上にへばりつく彼らの居場所をさすことにこそふさわしい(せん)など、すでにどこにも根拠を持たないというのに。彼らは今後も相も変わらず、「想像をかきたてる」と称して曖昧な、出し惜しみ臭ふんぷんの表現を続けるのだろうか。
笹公人氏は表現の出し惜しみをしない歌人である。そして、真に想像をかきたてるものがあるとすれば、言葉の豊饒さがぞんぶんに蕩尽されたのちの大いなる虚脱と静謐のなかにこそだろう。その意味で歌集「念力家族」は、言語が世界を補足するものではなく世界を作り出す装置であるということを示す、すぐれて言語芸術的な、中身のみっしり詰まった魔法の箱と言うことができるであろう。